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by sarasa-aki
| 2009-12-31 23:59
その日は10名ぐらいのパーティー予約が入っていました。
シェフのウエダさん(乙女座B型)は錦で一匹1万円の天然鯛を買ってきて「ブイヤベースを作ります」と気合が入っていました。他の料理の仕込みもこなしていき、いよいよメインのブイヤベースにとりかかっていきました。 と、そこへ知り合いの方が見えたので二人で2階のさらさの客席に話をしに来ました。 二人にコーヒーを出してしばらくしていると一階の厨房からなんか焦げ臭いにおいがしてきたので、ウエダさんに「ブイヤベース大丈夫ですか?」って聞きました。するとウエダさんは「大丈夫大丈夫」って答えました。 さらにしばらくするとますます焦げ臭いにおいがきつくなってきました。すると自転車屋(ナチュラルサイクル)にいてたキシモトさんが2階に上がってきて「ウエダさん、鯛が黒こげやで」って言いました。せっかくの知り合いとの会話を中断させられた彼は明らかに不機嫌顔でしぶしぶ1階に下りて行きました。「ああ、やっぱり焦げてるねえ。」っていう彼の声が下から聞こえてきました。 自分では火を止めたと思っていたらしく、一回り年の離れたワタシに「なんであの時確認しに行かなかったの?」って言われるとムカつくらしく「もしあの時行ってたとしてもどっちみち手遅れでしたよ」と開き直るかわいくない人でした。 その日はウッドインの物件の大家さんが会社の従業員全員連れてきて宴会をしてくれるとのこと。 当然ウエダさんも気合が入っています。 「アキちゃん、今日はチーズフォンデュやります」 「???ん?フォンデュ用の鍋とかは?」 「もう買ってきました。一式全部揃ってますよ。」 見ると銅でできたカッコいい鍋が4つ、それぞれ固形燃料を燃やす台座も付いてます。あと専用の串が40本くらい。フォンデュ用のワイン、チーズなど、、、。 「なんでこんな高いものを買ってまでチーズフォンデュにこだわるんですか?これから先こんな鍋とか使う機会ありますか?」ワタシが指摘すると、すこしキレぎみに「ここの大家さんにははったりでもいいから最高の料理をだして、できるシェフがいることを分かっていてもらいたいのです。」とウエダさん。 1985年当時のメニューはいわゆる喫茶メニューにちょっと毛が生えたみたいなものでした。 カレーに茹でたソーセージをつけて「ドイツ風カレー」とか、とんかつにチーズを挟んで「ウイーン風ポークカツレツ」なんて名前を付けて出していたのです。 その日の夜になりいよいよパーティーのゲストが集まってきました。前菜、サラダなどを出してついにチーズフォンデュの登場です。鍋を各テーブルにウエダさん自らセッティングしていき、あとは固形燃料に火をつけたらセッティング終了です。鍋の下の燃料置場に燃料をセットしてチャッカマンで点火すればいいのに、カウンターの上で固形燃料に着火してテーブルの方に向かっていったのです。次の瞬間、信じられないような光景が、、、。ウエダさんけつまずいて火のついた燃料を床に落としてしまったのです。さーっとメラメラと炎が床から立ち上がっています。ウエダさんは靴底で、ワタシは雑巾で必死で消火しました。幸いお客さんにはなにも被害がなくほどなく火は消えました。 ちょっとしたハプニングの後は料理をよりおいしくするって言うのをウエダさんは心得ていたのでしょう。 ただ、そのあと二度とフォンデュ鍋の出番はありませんでしたが、、、。 ある日、いい感じで暇な昼下がり、下の厨房からガスの臭いがしてきました。 内線で厨房のウエダさんに知らせようと受話器を取ったのですが、出ません。きっとまたナチュラルサイクルでキシモトさんとダダイズムについてでも語り合ってるのでしょう。ナチュラルサイクルの内線を呼び出すと、やっぱりそこにいました。 「ウエダさん、厨房からガスの臭いがしますよ」 「ああ、アキちゃん、わかった。ちょっと見てみるわ。」 「・・・ドカーーーーン・・・。」 一階に飛んでいくと、ウエダさんがガスオーブンの扉を開けて、チャッカマンを右手に持って、髪の毛と眉毛をチリチリにして、こっちを向いていました。 「なんだかオーブンがガス臭かったから、火をつけたら爆発しちゃったよ・・・。」 こんな不思議な中年男子、初めてみました。 それから8か月後 その日ウエダさんが出勤しません。 おかしいなと思っていると、同居していた女性から「ウエダは体調悪いので出勤できないと申しております。」と丁寧なお電話がありました。 自分でかけられないくらいしんどいのかなって心配したのですが、次の日もやっぱり彼女から丁寧な出勤拒否のお電話がかかってきたので、体調を確認すると、それほど深刻ではないとのことなので、安心しました。 電話はその後二日続けてかかってきましたが、そのあとは電話も無くなりウエダさんは私たちの思い当たる節のまるでないまま、フェードアウトしていきました。 彼女に電話させて欠勤する中年男子がいることをこの時初めて知りました。 自然消滅していった彼に対してワタシはムカムカしていたのですが、キシモトさんは「ウエダさんってかわいいなあ。。。」ってしみじみ言ってたのを今でもよく覚えています。 ウエダさんやキシモトさんが教えてくれたニンゲンのずるさ、弱さ、滑稽さ、愛おしさに感動しつつワタシはギターを抱えて富小路通りに出て、「ウエダさんが来ないブルース」を熱演しました。 #
by sarasa-aki
| 2009-02-15 21:48
「UFOが来てます。」
相変わらず暇な午後のさらさにいつもの方が来られました。 その方はロシアの人がかぶる毛皮の帽子がトレードマークの中年男性で、穏やかな物腰で静かに語る不思議な魅力のある占いをされてる方でした。 ある日、数人連れでこられた折に、急に右手をまっすぐ上にあげ目を閉じて、「今、この上空にUFOが来ています、皆さん感じますか?心を穏やかにして意識を上空に集中してみてください。」 もちろんワタシもまねをして目を閉じ意識を集中しましたが、ダメでした。でもお連れさんの何人かは「あ、感じる感じる」って言ってました。 「あの、踊っていいですか?」 いつものようにがらーんとしたお堂のようなさらさです。午後4時くらいでしたか、いつものようにお客さんはゼロでいい感じでボーっとしていたら、その方は来られました。 初めてみる方でどう見ても年齢がわからない小柄な不思議な印象の、ちょっと妖精のような女性でした。 暇なときはグレゴリオ聖歌やクラシックをよくかけていたのですが、その時はモーツアルトのレコードをかけていたのです。 ご注文のチャイを持って行って帰り際に視野の端っこで彼女がワタシに明らかな意図をもって微笑んでいたような気がしました。でも気付かないふりをしてカウンターの中に入って、息を殺して気持ちを落ち着かせようとしていたら、彼女が裸足になってこっちに歩み寄ってきたのです。 「あの、踊っていいですか?」 度肝を抜かれましたが、平静を装って、「今、だれもお客さんがいないので、踊ってもいいですよ。」っていいました。 彼女は静かに踊りだしました。モーツアルトに合わせて?今まで見たこともない不思議な静かなダンスでした。誰か来てくれないかなあ・・・なんて弱気な気持ちが持ち上がってきましたが、その日に限りウエダさんもキシモトさんも客席には姿を見せませんでした。 それから数ヵ月後に彼女はウッドインの正面玄関の壁に「花」という文字をまるで「花」がモーツアルトで踊っているような流動的なタッチで描いてくれました。 お父さん そのころウッドインの物件内には、中庭の奥、さらさの窓の向こうに2階建ての家がありまして、一階にワタシ、二階にキシモトさんが住み込んでいました。収入の低かったワタシたちに住宅費を払う余裕はありませんでした。 そのころなぜか知り合いの人たちが次から次へと捨て猫を拾ってきては何とかしてくれというのです。仕方がないので捨て猫を保護していたらあっという間に7匹にも増えました。主にワタシの一階の部屋で飼っていたのですが、その中で「お父さん」という名前の猫はしょっちゅう中庭を横切って店舗のほうに顔を出していました。特に気に入った場所がさらさのストーブの前でした。 いつものようにお父さんがストーブの横で寝ていると、若い女性のお客さんが来られました。 彼女はお父さんをひと撫でしてから席に着くと「シーフードピラフ」を注文しました。 いつものようにお客さんは彼女ひとり。お堂のようなさらさの空間にはゆったりと濃密な時間が流れています。 出来上がったシーフードピラフを彼女のもとへ運んでカウンターのほうへ帰っていく途中に、お父さんが彼女のほうに歩いて行くのがちらっと視野に入りました。 カウンターのワタシのいつもの位置に着いて彼女のほうを見ると、そこにはまたワタシの度肝を抜くのに十分な光景が広がっていました。なんとお父さんが彼女の膝の上に後ろ足を掛けて前足をテーブルに伸ばし、お皿からシーフードピラフをガツガツと食べていたのです。しかもその彼女は当たり前のように自分のスプーンでお父さんと一緒にシーフードピラフを食べていたのです。 彼女のもとに飛んで行って「すみません、うちの猫が。申し訳ありません。すぐに作り直します。」って言ったら、彼女は「大丈夫です、一緒に食べます。」って。 それ以降に猫とおなじお皿でものを食べる人にいまだ出会っていません。 お客さんの少ないさらさにはほかにもたくさんのユニークな人々をひきつける魔力があったように思われてなりません。 サラサで働いてくれるスタッフの人にもかなりユニークな人がいました。 その時分、そろそろアルバイトしてくれる人が一人ほしいなあって思っていたら、かわいらしい女の人が訪ねてきて、「アルバイトさせてください」って言うので、すごいタイミングだなあって思って、彼女の話を聞いてみたら・・・。 その前の晩に彼女は夢の中で京都市の町中の碁盤の目の中を彷徨い歩いていたのです。そしてある建物に目がとまり中に入って行くと木の階段が見えて、恐る恐る上がって行くと不思議なスピリチュアルな雰囲気の喫茶店だったので、夢から覚めて夢の中の記憶をたどって街を歩いていたら夢の中で見たのとおんなじ光景が富小路三条下がるのウッドインに広がっていて、やっぱり同じ木の階段があったので上がってきたら、さらさだったので、思わずバイトしたいと言ってしまったみたいなのです。 その占いの得意な彼女は次の日から働いてもらうことにしました。そしてしばらくしてカイトランドというフリーペーパーに彼女の占いは毎月連載されていました。 シャーリー・マクレーン、カルロス・カスタネダ、クリシュナムーティー、グルジェフ、ヘッセなどの精神世界ものに興味があったワタシは日々の仕事の中に真理が隠されていると悟ったつもりで、毎日の暮らしの中でそういった不思議な人たちとの出会いにも自分自身のセイシンセカイに何かリンクしてくるヒントが隠されているに違いないと、わくわくしながら働いていました。きっと誰もが罹るセイシンセカイの熱病時代をワタシは当時過ごしていました。 出会う音楽、人、美術にいちいち精神性を感じながら、二階の窓から「不易流行」の旗がはためいているのを見つめていた1985年冬のお昼すぎでした。 #
by sarasa-aki
| 2009-02-14 00:02
パーティーも終わり、いよいよさらさはゆっくりと船出をしていきました。
富小路通りから「不易流行」の旗の下を奥に進むと、服屋や楽器屋、自転車屋に古着屋、バッジ屋と、まるできれいめの香港のクーロン城のような混沌とした空間が広がり、普通の人は2階への階段にはあんまり注意を向けません。 でも少し勇気のある人は恐る恐る木の階段を2階へと昇っていきます。そしてドアのない入口から中を覗いてみますとスピリチュアルな雰囲気の漂う、まるでお寺のお堂のようなさらさの空間が現れます。 普通の人はここで怖くて引き返します。 階段を上ってきた勇気ある人の65%の人はここまで。 のこりの35%の人が勇気を振り絞ってお堂の中に入ってきてくれました。 着物を前後逆さまに来て裾を膝までたくし上げてカンフーシューズを履いたとても美人なシンちゃんがお客さんの注文を取りに行って、お客さんの度肝を抜きます。 当時のさらさはニッポンをすごく意識していました。 イサムノグチの和紙のランプやバッジ屋さんが作ってくれた和紙でできた「直径2メートル」のランプ、壁のコーナーで番傘をシェード代わりにした照明、あとは裸電球が少なめにあるという薄暗いがらーんとしたお堂のような雰囲気でした。 もともとのつくりが町家なので民芸調の喫茶店にだけはしたくないと思っていました。店の雰囲気づくりのアイデアは京都に住んでる外国人のお家からたくさん得ました。彼らには日本人の縛りがないので好きなように和室を使っていました。たとえば床の間が一面の本棚になっていたり、たいていの日本家屋にあるあの蛍光灯を取り払って床の間や部屋の隅っこに間接照明を数個取り付けていい感じの暗さにしたり、畳を部分的に取り除いてテーブルとイスをおいてみたり。 ニッポンと外国のハイブリッドな空間にするためにお金をかけずにいろいろ内装をいじっていきましたが、その核となる部分が、亀裂だらけの年月の感じさせる土壁とそこにかかるキシモトさんの小林麻美似の彼女が描いた大きな油絵でした。まさに和と洋の融合でした。 いちばん最初のメニューも彼女がキャンバスに筆で書いてくれたカッコいいものでした。 シンちゃんも和洋折衷の新解釈としてのあの着物を着ての接客でした。 洋服屋の女の子とシンちゃんは天気が良くてさらさのお客さんの少ない日は、さらさの店内の窓から外の瓦屋根に飛び降りて屋根の上に腰かけて日向ぼっこをしながらまかないを食べていました。ワタシは薄暗い店内から外の二人を恨めしげに見つめていました。日常と非日常、この世とあの世、少女とオンナ、自由な空気と厳しい現実・・・・。いろんな妄想を掻き立てられるとても素敵な光景でした。 一日売上3千円 コーヒーが10杯ほど こんな売り上げでいいのかと つぶれてしまわないのかと でもなんだか楽しいぞと 夕暮れのお客さんのいない店内にRY COODERの I THINK IT'S GOING TO WORK OUT FINE やTALKING HEADS のHEAVENを聴きながらしばし思考停止。 当時お金のある人たちはコンクリート打ちっぱなしの建物にデザイナーものの椅子やテーブルのあるカフェバーを作って、ギャルソン風のびしっとした店員さんが丁寧な言葉づかいで「イラッシャイマセ」・・・・ふーん・・・なんなん・・・それがどうしたん・・・ちょっとカッコ悪くないか? 自分たちはお金はないけどカッコいいことをやってていつか必ず認められる日が来る そんな変な自信だけはしっかりと持ちつつ売上3千円に耐えていた1985年春ごろです。 #
by sarasa-aki
| 2009-02-04 14:28
プレオープンの予行演習もぼちぼち打ち切る時期になり、ついに本オープンしようということになり、1984年12月吉日、大々的にパーティーをすることになりました。
ゲストは私たちの人脈をフルに使ってできるだけたくさんの人を呼ぼうということになり、まず景気づけにバンドは絶対来てほしいので、キシモトさんや楽器屋さんの友人の「セールスクラークス」という当時寝屋川を拠点に活躍してたロックバンドに来てもらうことになりました。 キシモトさんのナイアガラ時代の大瀧詠一さんは、キシモトさんの中の「大人な理由」で、今回は見送りということだったのが残念でした。 ワタシはトモさんやBAGUSのメンバー、外国人連中に声をかけ、みんなそれぞれいろんな人を招待してオープニングパーティーの日がやってきました。 ゲストのなかで印象的だったのが、当時「an an」のライターで現在はグルメ界の重鎮、カドカミさん、精華大学の先生をしていた、ジョンアイナセン、ヨガの先生をしていたコバヤシさんなどでした。 そして夕方3時くらいからスタートです。パーティーのオープニングはロックバンドです。ドラムのフルセット、ギター、キーボード、ベースとかなりのさらさのフロアーを占有して、衣装にメイクもばっちりで「1・2・3・4・ドカーン」っとかなりハードなロックの演奏が始まりました。 なのに・・・、一曲が終わらないうちに、、、ケイサツが。 ウッドインの正面は旅館、左隣はホテル、右隣はマンションとなっていまして、普通の民家よりも防音面ではまだ優れてるほうだとは思うのですが、今までウエダさんのブルースしか流れたことのない閑静な富小路通りにハードロックの爆音が響いたので、住民の方たちは自分たちが何かに攻撃される…みたいな危機感を感じ取ったのでしょう。 それでケーサツを呼んだのでしょう。 おかげでバンドの皆さんには申し訳なく演奏を中止してもらい、ドラムなしで音量を絞ってビートルズのナンバーなんかをやってもらいました。 宴もたけなわになってきたころ、ワタシとキシモトさんが密かにこの日のために練習していた五木ひろしの「横浜たそがれ」を披露しました。キシモトさんがアコースティックギター、ワタシがボーカルで確かソウルっぽい節回しで最後に聖歌隊風に終わるというものでした。 ウエダさんは例のギターで「エマニエル夫人」をやってしまったようなうすぼんやりとした記憶があります。 100人くらいのゲストはみんなハッピーそうな表情であっちでワイワイこっちでガヤガヤっていう感じで、誰かがギターを弾いて歌って、誰かがアカペラで歌って、夜遅くまでパーティーは続いていきました。 パーティーの最中に外の空気が吸いたくて散歩に出かけてみると、ちょっと離れた新京極や河原町ではクリスマスのイルミネーションがキラキラしているのに、ここ三条富小路は夜は暗く人通りもなく、その暗闇に一か所だけぼーっとウッドインの暖かい光が洩れていました。 1984年12月吉日。明るいウッドインそしてさらさの未来を予想させるいいパーティーでした。 #
by sarasa-aki
| 2009-02-04 11:56
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