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その日は10名ぐらいのパーティー予約が入っていました。
シェフのウエダさん(乙女座B型)は錦で一匹1万円の天然鯛を買ってきて「ブイヤベースを作ります」と気合が入っていました。他の料理の仕込みもこなしていき、いよいよメインのブイヤベースにとりかかっていきました。 と、そこへ知り合いの方が見えたので二人で2階のさらさの客席に話をしに来ました。 二人にコーヒーを出してしばらくしていると一階の厨房からなんか焦げ臭いにおいがしてきたので、ウエダさんに「ブイヤベース大丈夫ですか?」って聞きました。するとウエダさんは「大丈夫大丈夫」って答えました。 さらにしばらくするとますます焦げ臭いにおいがきつくなってきました。すると自転車屋(ナチュラルサイクル)にいてたキシモトさんが2階に上がってきて「ウエダさん、鯛が黒こげやで」って言いました。せっかくの知り合いとの会話を中断させられた彼は明らかに不機嫌顔でしぶしぶ1階に下りて行きました。「ああ、やっぱり焦げてるねえ。」っていう彼の声が下から聞こえてきました。 自分では火を止めたと思っていたらしく、一回り年の離れたワタシに「なんであの時確認しに行かなかったの?」って言われるとムカつくらしく「もしあの時行ってたとしてもどっちみち手遅れでしたよ」と開き直るかわいくない人でした。 その日はウッドインの物件の大家さんが会社の従業員全員連れてきて宴会をしてくれるとのこと。 当然ウエダさんも気合が入っています。 「アキちゃん、今日はチーズフォンデュやります」 「???ん?フォンデュ用の鍋とかは?」 「もう買ってきました。一式全部揃ってますよ。」 見ると銅でできたカッコいい鍋が4つ、それぞれ固形燃料を燃やす台座も付いてます。あと専用の串が40本くらい。フォンデュ用のワイン、チーズなど、、、。 「なんでこんな高いものを買ってまでチーズフォンデュにこだわるんですか?これから先こんな鍋とか使う機会ありますか?」ワタシが指摘すると、すこしキレぎみに「ここの大家さんにははったりでもいいから最高の料理をだして、できるシェフがいることを分かっていてもらいたいのです。」とウエダさん。 1985年当時のメニューはいわゆる喫茶メニューにちょっと毛が生えたみたいなものでした。 カレーに茹でたソーセージをつけて「ドイツ風カレー」とか、とんかつにチーズを挟んで「ウイーン風ポークカツレツ」なんて名前を付けて出していたのです。 その日の夜になりいよいよパーティーのゲストが集まってきました。前菜、サラダなどを出してついにチーズフォンデュの登場です。鍋を各テーブルにウエダさん自らセッティングしていき、あとは固形燃料に火をつけたらセッティング終了です。鍋の下の燃料置場に燃料をセットしてチャッカマンで点火すればいいのに、カウンターの上で固形燃料に着火してテーブルの方に向かっていったのです。次の瞬間、信じられないような光景が、、、。ウエダさんけつまずいて火のついた燃料を床に落としてしまったのです。さーっとメラメラと炎が床から立ち上がっています。ウエダさんは靴底で、ワタシは雑巾で必死で消火しました。幸いお客さんにはなにも被害がなくほどなく火は消えました。 ちょっとしたハプニングの後は料理をよりおいしくするって言うのをウエダさんは心得ていたのでしょう。 ただ、そのあと二度とフォンデュ鍋の出番はありませんでしたが、、、。 ある日、いい感じで暇な昼下がり、下の厨房からガスの臭いがしてきました。 内線で厨房のウエダさんに知らせようと受話器を取ったのですが、出ません。きっとまたナチュラルサイクルでキシモトさんとダダイズムについてでも語り合ってるのでしょう。ナチュラルサイクルの内線を呼び出すと、やっぱりそこにいました。 「ウエダさん、厨房からガスの臭いがしますよ」 「ああ、アキちゃん、わかった。ちょっと見てみるわ。」 「・・・ドカーーーーン・・・。」 一階に飛んでいくと、ウエダさんがガスオーブンの扉を開けて、チャッカマンを右手に持って、髪の毛と眉毛をチリチリにして、こっちを向いていました。 「なんだかオーブンがガス臭かったから、火をつけたら爆発しちゃったよ・・・。」 こんな不思議な中年男子、初めてみました。 それから8か月後 その日ウエダさんが出勤しません。 おかしいなと思っていると、同居していた女性から「ウエダは体調悪いので出勤できないと申しております。」と丁寧なお電話がありました。 自分でかけられないくらいしんどいのかなって心配したのですが、次の日もやっぱり彼女から丁寧な出勤拒否のお電話がかかってきたので、体調を確認すると、それほど深刻ではないとのことなので、安心しました。 電話はその後二日続けてかかってきましたが、そのあとは電話も無くなりウエダさんは私たちの思い当たる節のまるでないまま、フェードアウトしていきました。 彼女に電話させて欠勤する中年男子がいることをこの時初めて知りました。 自然消滅していった彼に対してワタシはムカムカしていたのですが、キシモトさんは「ウエダさんってかわいいなあ。。。」ってしみじみ言ってたのを今でもよく覚えています。 ウエダさんやキシモトさんが教えてくれたニンゲンのずるさ、弱さ、滑稽さ、愛おしさに感動しつつワタシはギターを抱えて富小路通りに出て、「ウエダさんが来ないブルース」を熱演しました。 # by sarasa-aki | 2009-02-15 21:48
「UFOが来てます。」
相変わらず暇な午後のさらさにいつもの方が来られました。 その方はロシアの人がかぶる毛皮の帽子がトレードマークの中年男性で、穏やかな物腰で静かに語る不思議な魅力のある占いをされてる方でした。 ある日、数人連れでこられた折に、急に右手をまっすぐ上にあげ目を閉じて、「今、この上空にUFOが来ています、皆さん感じますか?心を穏やかにして意識を上空に集中してみてください。」 もちろんワタシもまねをして目を閉じ意識を集中しましたが、ダメでした。でもお連れさんの何人かは「あ、感じる感じる」って言ってました。 「あの、踊っていいですか?」 いつものようにがらーんとしたお堂のようなさらさです。午後4時くらいでしたか、いつものようにお客さんはゼロでいい感じでボーっとしていたら、その方は来られました。 初めてみる方でどう見ても年齢がわからない小柄な不思議な印象の、ちょっと妖精のような女性でした。 暇なときはグレゴリオ聖歌やクラシックをよくかけていたのですが、その時はモーツアルトのレコードをかけていたのです。 ご注文のチャイを持って行って帰り際に視野の端っこで彼女がワタシに明らかな意図をもって微笑んでいたような気がしました。でも気付かないふりをしてカウンターの中に入って、息を殺して気持ちを落ち着かせようとしていたら、彼女が裸足になってこっちに歩み寄ってきたのです。 「あの、踊っていいですか?」 度肝を抜かれましたが、平静を装って、「今、だれもお客さんがいないので、踊ってもいいですよ。」っていいました。 彼女は静かに踊りだしました。モーツアルトに合わせて?今まで見たこともない不思議な静かなダンスでした。誰か来てくれないかなあ・・・なんて弱気な気持ちが持ち上がってきましたが、その日に限りウエダさんもキシモトさんも客席には姿を見せませんでした。 それから数ヵ月後に彼女はウッドインの正面玄関の壁に「花」という文字をまるで「花」がモーツアルトで踊っているような流動的なタッチで描いてくれました。 お父さん そのころウッドインの物件内には、中庭の奥、さらさの窓の向こうに2階建ての家がありまして、一階にワタシ、二階にキシモトさんが住み込んでいました。収入の低かったワタシたちに住宅費を払う余裕はありませんでした。 そのころなぜか知り合いの人たちが次から次へと捨て猫を拾ってきては何とかしてくれというのです。仕方がないので捨て猫を保護していたらあっという間に7匹にも増えました。主にワタシの一階の部屋で飼っていたのですが、その中で「お父さん」という名前の猫はしょっちゅう中庭を横切って店舗のほうに顔を出していました。特に気に入った場所がさらさのストーブの前でした。 いつものようにお父さんがストーブの横で寝ていると、若い女性のお客さんが来られました。 彼女はお父さんをひと撫でしてから席に着くと「シーフードピラフ」を注文しました。 いつものようにお客さんは彼女ひとり。お堂のようなさらさの空間にはゆったりと濃密な時間が流れています。 出来上がったシーフードピラフを彼女のもとへ運んでカウンターのほうへ帰っていく途中に、お父さんが彼女のほうに歩いて行くのがちらっと視野に入りました。 カウンターのワタシのいつもの位置に着いて彼女のほうを見ると、そこにはまたワタシの度肝を抜くのに十分な光景が広がっていました。なんとお父さんが彼女の膝の上に後ろ足を掛けて前足をテーブルに伸ばし、お皿からシーフードピラフをガツガツと食べていたのです。しかもその彼女は当たり前のように自分のスプーンでお父さんと一緒にシーフードピラフを食べていたのです。 彼女のもとに飛んで行って「すみません、うちの猫が。申し訳ありません。すぐに作り直します。」って言ったら、彼女は「大丈夫です、一緒に食べます。」って。 それ以降に猫とおなじお皿でものを食べる人にいまだ出会っていません。 お客さんの少ないさらさにはほかにもたくさんのユニークな人々をひきつける魔力があったように思われてなりません。 サラサで働いてくれるスタッフの人にもかなりユニークな人がいました。 その時分、そろそろアルバイトしてくれる人が一人ほしいなあって思っていたら、かわいらしい女の人が訪ねてきて、「アルバイトさせてください」って言うので、すごいタイミングだなあって思って、彼女の話を聞いてみたら・・・。 その前の晩に彼女は夢の中で京都市の町中の碁盤の目の中を彷徨い歩いていたのです。そしてある建物に目がとまり中に入って行くと木の階段が見えて、恐る恐る上がって行くと不思議なスピリチュアルな雰囲気の喫茶店だったので、夢から覚めて夢の中の記憶をたどって街を歩いていたら夢の中で見たのとおんなじ光景が富小路三条下がるのウッドインに広がっていて、やっぱり同じ木の階段があったので上がってきたら、さらさだったので、思わずバイトしたいと言ってしまったみたいなのです。 その占いの得意な彼女は次の日から働いてもらうことにしました。そしてしばらくしてカイトランドというフリーペーパーに彼女の占いは毎月連載されていました。 シャーリー・マクレーン、カルロス・カスタネダ、クリシュナムーティー、グルジェフ、ヘッセなどの精神世界ものに興味があったワタシは日々の仕事の中に真理が隠されていると悟ったつもりで、毎日の暮らしの中でそういった不思議な人たちとの出会いにも自分自身のセイシンセカイに何かリンクしてくるヒントが隠されているに違いないと、わくわくしながら働いていました。きっと誰もが罹るセイシンセカイの熱病時代をワタシは当時過ごしていました。 出会う音楽、人、美術にいちいち精神性を感じながら、二階の窓から「不易流行」の旗がはためいているのを見つめていた1985年冬のお昼すぎでした。 # by sarasa-aki | 2009-02-14 00:02
パーティーも終わり、いよいよさらさはゆっくりと船出をしていきました。
富小路通りから「不易流行」の旗の下を奥に進むと、服屋や楽器屋、自転車屋に古着屋、バッジ屋と、まるできれいめの香港のクーロン城のような混沌とした空間が広がり、普通の人は2階への階段にはあんまり注意を向けません。 でも少し勇気のある人は恐る恐る木の階段を2階へと昇っていきます。そしてドアのない入口から中を覗いてみますとスピリチュアルな雰囲気の漂う、まるでお寺のお堂のようなさらさの空間が現れます。 普通の人はここで怖くて引き返します。 階段を上ってきた勇気ある人の65%の人はここまで。 のこりの35%の人が勇気を振り絞ってお堂の中に入ってきてくれました。 着物を前後逆さまに来て裾を膝までたくし上げてカンフーシューズを履いたとても美人なシンちゃんがお客さんの注文を取りに行って、お客さんの度肝を抜きます。 当時のさらさはニッポンをすごく意識していました。 イサムノグチの和紙のランプやバッジ屋さんが作ってくれた和紙でできた「直径2メートル」のランプ、壁のコーナーで番傘をシェード代わりにした照明、あとは裸電球が少なめにあるという薄暗いがらーんとしたお堂のような雰囲気でした。 もともとのつくりが町家なので民芸調の喫茶店にだけはしたくないと思っていました。店の雰囲気づくりのアイデアは京都に住んでる外国人のお家からたくさん得ました。彼らには日本人の縛りがないので好きなように和室を使っていました。たとえば床の間が一面の本棚になっていたり、たいていの日本家屋にあるあの蛍光灯を取り払って床の間や部屋の隅っこに間接照明を数個取り付けていい感じの暗さにしたり、畳を部分的に取り除いてテーブルとイスをおいてみたり。 ニッポンと外国のハイブリッドな空間にするためにお金をかけずにいろいろ内装をいじっていきましたが、その核となる部分が、亀裂だらけの年月の感じさせる土壁とそこにかかるキシモトさんの小林麻美似の彼女が描いた大きな油絵でした。まさに和と洋の融合でした。 いちばん最初のメニューも彼女がキャンバスに筆で書いてくれたカッコいいものでした。 シンちゃんも和洋折衷の新解釈としてのあの着物を着ての接客でした。 洋服屋の女の子とシンちゃんは天気が良くてさらさのお客さんの少ない日は、さらさの店内の窓から外の瓦屋根に飛び降りて屋根の上に腰かけて日向ぼっこをしながらまかないを食べていました。ワタシは薄暗い店内から外の二人を恨めしげに見つめていました。日常と非日常、この世とあの世、少女とオンナ、自由な空気と厳しい現実・・・・。いろんな妄想を掻き立てられるとても素敵な光景でした。 一日売上3千円 コーヒーが10杯ほど こんな売り上げでいいのかと つぶれてしまわないのかと でもなんだか楽しいぞと 夕暮れのお客さんのいない店内にRY COODERの I THINK IT'S GOING TO WORK OUT FINE やTALKING HEADS のHEAVENを聴きながらしばし思考停止。 当時お金のある人たちはコンクリート打ちっぱなしの建物にデザイナーものの椅子やテーブルのあるカフェバーを作って、ギャルソン風のびしっとした店員さんが丁寧な言葉づかいで「イラッシャイマセ」・・・・ふーん・・・なんなん・・・それがどうしたん・・・ちょっとカッコ悪くないか? 自分たちはお金はないけどカッコいいことをやってていつか必ず認められる日が来る そんな変な自信だけはしっかりと持ちつつ売上3千円に耐えていた1985年春ごろです。 # by sarasa-aki | 2009-02-04 14:28
プレオープンの予行演習もぼちぼち打ち切る時期になり、ついに本オープンしようということになり、1984年12月吉日、大々的にパーティーをすることになりました。
ゲストは私たちの人脈をフルに使ってできるだけたくさんの人を呼ぼうということになり、まず景気づけにバンドは絶対来てほしいので、キシモトさんや楽器屋さんの友人の「セールスクラークス」という当時寝屋川を拠点に活躍してたロックバンドに来てもらうことになりました。 キシモトさんのナイアガラ時代の大瀧詠一さんは、キシモトさんの中の「大人な理由」で、今回は見送りということだったのが残念でした。 ワタシはトモさんやBAGUSのメンバー、外国人連中に声をかけ、みんなそれぞれいろんな人を招待してオープニングパーティーの日がやってきました。 ゲストのなかで印象的だったのが、当時「an an」のライターで現在はグルメ界の重鎮、カドカミさん、精華大学の先生をしていた、ジョンアイナセン、ヨガの先生をしていたコバヤシさんなどでした。 そして夕方3時くらいからスタートです。パーティーのオープニングはロックバンドです。ドラムのフルセット、ギター、キーボード、ベースとかなりのさらさのフロアーを占有して、衣装にメイクもばっちりで「1・2・3・4・ドカーン」っとかなりハードなロックの演奏が始まりました。 なのに・・・、一曲が終わらないうちに、、、ケイサツが。 ウッドインの正面は旅館、左隣はホテル、右隣はマンションとなっていまして、普通の民家よりも防音面ではまだ優れてるほうだとは思うのですが、今までウエダさんのブルースしか流れたことのない閑静な富小路通りにハードロックの爆音が響いたので、住民の方たちは自分たちが何かに攻撃される…みたいな危機感を感じ取ったのでしょう。 それでケーサツを呼んだのでしょう。 おかげでバンドの皆さんには申し訳なく演奏を中止してもらい、ドラムなしで音量を絞ってビートルズのナンバーなんかをやってもらいました。 宴もたけなわになってきたころ、ワタシとキシモトさんが密かにこの日のために練習していた五木ひろしの「横浜たそがれ」を披露しました。キシモトさんがアコースティックギター、ワタシがボーカルで確かソウルっぽい節回しで最後に聖歌隊風に終わるというものでした。 ウエダさんは例のギターで「エマニエル夫人」をやってしまったようなうすぼんやりとした記憶があります。 100人くらいのゲストはみんなハッピーそうな表情であっちでワイワイこっちでガヤガヤっていう感じで、誰かがギターを弾いて歌って、誰かがアカペラで歌って、夜遅くまでパーティーは続いていきました。 パーティーの最中に外の空気が吸いたくて散歩に出かけてみると、ちょっと離れた新京極や河原町ではクリスマスのイルミネーションがキラキラしているのに、ここ三条富小路は夜は暗く人通りもなく、その暗闇に一か所だけぼーっとウッドインの暖かい光が洩れていました。 1984年12月吉日。明るいウッドインそしてさらさの未来を予想させるいいパーティーでした。 # by sarasa-aki | 2009-02-04 11:56
富小路三条下がる朝倉町
WOOD INN 当時の富小路通りは人影まばらでひっそりとした通りで、店を開いてお客さんが来てくれる可能性は極めて低い感じの場所でした。 買物は四条、河原町、新京極、飲むのはヤングは木屋町アダルトは祇園っていう時代でした。 町家ボロボロ物件の中の喫茶店部分はまるでお寺のお堂のような空間でした。 ガラーンとしてて入口のドアもありません。 クッションフロアーの床、作りつけ固定式の長いテーブル5卓、椅子はなく壁沿いにズラーッと、40センチくらいの座面を持たせた背もたれは壁の固定式ベンチのようなモノ。その座面の上に手作りのクッション。 背の高さまでは白い漆喰でそこから上は昔のままの土壁、天井ストリップの梁丸出し。 一階の厨房には業務用のものは何もなし。キシモトサン(件のワタシの彼女の大家さん)が拾って来てくれた2口の家庭用ガス台が2つ、家庭用冷蔵庫2台、氷屋さんにもらったアイスクリームなどを売るためのガラス戸上開き式ボロボロ冷凍庫、家庭用流し台、木製手作り作業台、 お皿やグラス類は各自及び知り合いのお家からの寄せ集めでした。少しは店で買ったり、ビール会社の販促品を使ったりしてできるだけお金をかけずにすむよう知恵を出しました。 ワタシは自宅からオーディオを持ってきてBGMがかけれるようにしました。キシモトさんはナイアガラレーベル立ち上げの仕事をしていたような人なのでレコードをたくさん持ってきてくれました。ヤードバーズ、二ルソン、デイブメイスン、CSNY,はっぴーえんど、ヴァンダイクパークス、バッハなど。 キシモトさんとウエダさんは料理担当、ワタシはホール担当、小林麻美似のキシモトさんの彼女も時々ヘルプでホール担当。 ウエダさん・・・船員免許をもつ体格のがっちりとした英語の話せる乙女座B型のシェフ。自分の声に酔ってるような節が見受けられ、体のわりにナイーブな壊れやすい心を持ってるような、当時のワタシの中で一番不可解なオトナ。 店名は「さらさ」 キシモトさんが決めました。 ペルシャ湾近辺発祥の生地でシルクロードを通ってインド、ジャワ、バリ、中国を経由して日本に室町時代に持ち込まれたらしいです。 アメリカ大陸にも渡って行ってペイズリー柄として定着したそうです。 インドではインド更紗、バリではバティックというようにその時代その土地に応じて柔軟に定着していったサラサのように、この喫茶店も基本となる哲学はしっかりと持ちつつ、今後いろいろな場所でその土地や人の雰囲気に合った定着の仕方をして行ってくれたらいい。 サラサというものの不変性と土地土地で変化していく流動性。芭蕉の提起した「不易流行」の理念も「さらさ」の名前に込められています。 そんな思いでこの名前にしたそうです。 名前も決まっていよいよ慣らし運転をするような感じで店を開けることに決めました。 メニューはビーフシチュー、カレーライス、サンドイッチ、ウイーン風ポークカツレツ、チキンライス、飲み物はコーヒー、紅茶、ジャスミン茶、オレンジジュース、ビール、ウイスキーくらいでした。一応プレオープンなのでこれくらいのメニュー数でやっていって、本オープンしてから少しづつ増やしていこう、見たいなノリでした。 ワタシはできるだけ友達に声をかけて来てもらって、食べてもらって、感想を言ってもらって、それぞれの意見を参考に試行錯誤の毎日でした。 やっぱりこのメニューはなくてはならない、あれもいい、これもいい、でもシェフのウエダさんは何を言っても真剣に聞いくれません(乙女座B型)、でも12時から22時まで営業してて売上3000円みたいな日々が続くとウエダさんは表の富小路通りまで出て行って、椅子に座ってギターを弾きながら「お客さんが来ないブルース」を歌い始めるのです。単純な3コードのよくあるブルースをがっちり体型の乙女座B型がやるもんだからおかしくて、ウエダさんブルースが聞こえるとすぐに2階の客室から階段下りて行ってウエダさんの歌いっぷりを見ていました。 もうお客さんなんて来なくてもいいやって思うくらい自由な空気が富小路通りを漂っていました。 WOOD INNはキシモトさんがウッドストックとINNっていう響きの良さからつけた建物全体の名前で、2階に「さらさ」、英会話教室、民族雑貨屋、1階に自転車屋、中古楽器屋、女性用カジュアル服屋、ジーンズ屋、缶バッジ屋が入った今でいうコンプレックス、俗にいう雑居ビル、しかも木造2階建ての。 2階の窓からはアメリカ国旗とワタシの達筆?太筆書きの1・5メートル四方の「不易流行」の文字がはためいていましたし、ヒッピー風日本人や外国人、それにハードロック系の金髪長髪の若者たちが頻繁に出入りしていました。そこにウエダさんブルースですから、きっとご近所から見ればかなり浮いていたと思います。 そんな11月の京都は結構寒くてエアコンのない「さらさ」は灯油ストーブ2台でこの冬を乗り切らなくてはなりません。 「さらさ」にはキシモトさんのピアノが置いてあって、お客さんのいない時間にCSNYの「our house」をキシモトさんがピアノ、ワタシが歌担当で遊んだりもしていまいた。 夕方の光の少ない時間帯は灯油ストーブの炎とお客さんの少ないお堂のような「さらさ」の空間がいちばん美しく見える時で、クラシックやグレゴリオ聖歌などのスピリチュアルな音楽がとても似合っていましたしいい反響で良く鳴っていました。 せっかく一階に楽器屋さんがあるんだからギターでもやってみようと思い、ギブソンのかっこいいギターを買いました。楽器屋さんのアルバイトの少年に閉店後にいろいろ教えてもらってライクーダーの「great dream from heaven」や喜納昌吉の「花」で練習しました。 その時期に一曲オリジナルを作曲したのですが、未完のまま途中で終わってしまったものがあって、ぜひ近いうちにウクレレで完成したいと思っています。 中古楽器屋、ヘビメタ少年、ウエダさん、キシモトさん、ピアノ、たくさんのレコード・・・、毎日が音楽中心に回っていた1984年11月終り頃でした。 # by sarasa-aki | 2009-01-20 18:05
富小路三条
深草願成町の例の大家さんがある日、バイト先のBAGUSに来ました。 BAGUSのユニフォームは近所(河原町三条下がる2筋目東入る)の綿綿堂さんで買ったアロハシャツでして、店の雰囲気がバリ島だったので仕方がないのですが、当時は冬場にアロハを着ることに結構な違和感を持っていました。 で、その綿綿堂さんの経営者がイトカワさんというのですが、彼にいろいろアドバイスをして店の立ち上げに協力した人が、後でわかったんですが、例の大家さんだったのです。 大家さんはその日、背の高いモデルさんみたいな彼女(雨音はショパンの調べの小林麻美さんに似てた)と一緒でした。大家さんも結構背の高い人なので二人はお似合いのカップルでした。 「寝屋川でジーンズショップやってるんだけど、こんど京都市内に移転してこようと思ってる。いま物件をいろいろ当たってる最中です。」 「いいところが見つかるといいですね」 そんな感じの会話をした記憶があります。 「おしゃれなカフェバーですね」 ツナチーズホットサンドとグアバジュースをオーダーしながら彼は言いました。 確かに当時のBAGUSのお客さんはBALやSALAD BOWLの店員さんやそのお客さん、ミュージシャンや外国人などのいわゆるおしゃれに気を使ってる人たちがたくさん来てくれてました。極端にいえば「店が客を選んでいる」ような店で、店のカラーに合わないお客さんには冷たい店だったと思います。でもカラーに合うお客さんはとても居心地が良かったと思います。そんな店でも結構当時は流行っていたのでした。店が客を選ぶ・・・はじめての店に入る客はドキドキしながら審判を仰ぐ・・・・。今となっては嘘みたいな話が当時は普通に通用していました。 「おしゃれな店」とはそうやって店側と客とのタイトな関係の上に成り立っているのが当たり前の時代でした。 数週間後にまた大家さんが来ました。 「すごい面白い物件を見つけました、ジーパン屋するだけやったら大きすぎるので、友達の楽器屋さんにも入ってもらおうと思ってるんだけど、それでもまだスペース余るし、2階でフルーツパーラーでもしようかと思ってます。よかったら手伝ってもらえませんか。」 フルーツパーラーに多少の違和感を感じましたけど、しばらくして物件を見させてもらいに、富小路三条まで向かいました。 間口の狭い奥行きの長い大きな町家物件でした。 2階のフルーツパーラーのスペースは天井をストリップにして屋根裏を大家さんの友人の若者たちが全身真っ黒になりながらペンキ塗りをしていました。 [今まで今まで見たこともない喫茶店になりそうだな] とワタシは思いました。 三条木屋町の高瀬川のほとりにある安藤忠雄さん設計の「タイムズビル」は特に当時の話題になりました。 古い京都の町家がどんどん壊されてコンクリート打ちっぱなしの商業施設やワンルームマンションになっていきました。 そんな時代に、「あの木造ボロボロ物件」です。 面白くないわけないです。 音楽では、 スポーツ/ヒューイ・ルイス&ザ・ニュース シーズ・ソー・アンユージュアル(N.Y.ダンステリア)/シンディー・ローパー パープルレイン/プリンス あたりでしょうか。 映画では インディージョーンズ魔宮の伝説 ゴーストバスターズ フットルース なんかがはやっていました。 相変わらず将来の展望もなく、大学は退学するか卒業するか迷っていたけど、でも、何か面白そうなことが起きるかもしれない気配ムンムンの1984年10月あたりです。 # by sarasa-aki | 2009-01-08 20:49
深草願成町
BAGUSでバイトしてたワタシハそこでイギリス人の女の人と知り合って付き合うようになりました。 彼女は八幡市の英会話学校のイギリスでの募集で採用された他の女のひと2名と一緒に男山団地の社宅に住み始めてまだ間がなかったんですが、その学校に3人とも嫌気がさしていて、できるだけ早く京都市内に引っ越して就職先を探したいと思っていました。 でもまだ日本に来て時間がたっていなかったので、日本人の友達があんまりいなくって、唯一信頼できる日本人が当時まだ大学生だったワタシだったのです。彼女たちに頼まれてワタシハ京都市内の不動産屋を巡って、物件を探し始めました。 日本に来て間がない彼女たちにとって大きな壁が保証人と高い敷金礼金の問題でした。希望は古くていかにも日本建築っていう感じの一軒家でしたが、やはり敷礼が高くてとても払えませんでした。 3人でシェアするから家賃はそこそこ高くてもいいから敷礼の安いところを必死で探していたら、ある物件の大家さんが敷礼を大幅に負けてもいいと言ってくれて、次の日に不動産屋さんとワタシと彼女とでその物件を見に行きました。 出迎えてくれたとそこの大家さんは若い人であんまり大家さんっぽくない人で、いきなりビールとおつまみを私たちに振舞ってくれたのです。恐縮しながらビールをいただいていると、不動産屋さんがちょっと席を外した時を見計らって、大家さんがワタシにメモをテーブルの下からこっそり渡してくれたので、こっそり読むと、「もしこの物件が気に入ってくれたのなら、不動産屋さんには、気に入らなかったと言って断って、ぼくたちだけで契約しましょう。そのほうが一カ月分の家賃分の紹介料が浮くからね。」と書いてありました。 ビールは出してくれるは敷礼は負けてくれるは物件紹介料も払わないで済むようにしてくれるはで、なんてこの人は素敵な人なんだろうって思いました。 さっそくイギリス人3人とぼくとでミーティングをして検討してこの話に乗ることにしました。 親切に深草願成町まで車に乗せて行ってくれた不動産さんには、良心が咎めましたが、打ち合わせ通りあそこは古すぎていまいちだったと断って、件の大家さんとじかに契約を交わしました。 何年かそこは人が住んでいなかったようで、庭の池には落ち葉がぎっしりと積もっていました。大家さんはイギリス人が引っ越しする日に合わせて庭の大掃除をやってくれて、なんと大丸の屋上で鯉を数匹買ってきてくれて池の中に放流してくれました。 引っ越しパーティーにその大家さんも呼んでいろいろ話をしていたら、彼は今現在香里園でジーンズ屋を営んでいるけどその前は東京で大瀧詠一さんや細野晴臣さんたちとナイアガラレーベルの立ち上げを手伝ってきて、自身も大瀧さんのアルバムのプロモーションやったり、曲か作詞で協力したのだと言ってました。 変わった人と知り合いになったものだと、彼女と喜びました。 彼女たちははじめて住む日本家屋にすっかり夢中になって頻繁にパーティーを開いてたくさんの人たちをその家に招待しました。 トモさんは当時イギリス3人娘の一人と付き合っていて、彼の英語はすごくネイティブっぽくてカッコよかってワタシハかれに憧れていました。彼はワタシより5歳ぐらい年上なのに全く同年代の友達のような扱いをしてくれて、上から目線はゼロでした。そのことがすごく衝撃的で、外国人と長い付き合いをしてきた人だからきっとこんなにも日本人離れしてるんだと思いました。 ワタシも彼のように年下の人に接する時には先輩後輩の野球部のような態度だけは絶対取らないようにしようと決めました。そういえばジーンズ屋の大家さんもワタシに対して同等の言葉づかいで接してくれてました。そういった感じで、トモさんと大家さんが大学生だったワタシのカッコイイ大人像を決定づけました。 あの人たちのまねをしよう。 やりたいことはまだ見つかっていませんでしたが、なりたい大人像は決まりました。 大阪でプガジャやエルマガ、京都でペリカンクラブといった情報誌が創刊されたのがこの年だったように思います。 五条堀川あたりにアビエックスっていうライブハウス、上賀茂にサイコっていうカフェバー、精華大学の近所にゾルバダブッダ(後にロータスに名前変える)っていう今でいうところのカフェがあって、京都のカッコいい店、ひと癖ありそうな店が誕生したのもこのあたりの年だったように記憶しています。 そして河原町通りや木屋町を上から下まで真っ赤な服を着たサニアシン(バグワン、ラジニーシ)の人たちがオーガスタスパブロみたいにピアニカ吹きながら数人で歩いてるのをよく見かけた1983年あたりでした。 # by sarasa-aki | 2008-11-26 22:14
BAGUS(バグース)
河原町六角東入る雑居ビルの4階のカフェバーでワタシハバイトしていました。 奈良のパチンコ屋さんが儲かりすぎてたからその税金対策で出した「BIG BOY」というJAZZ喫茶が当たってしまい、しかたないのでまた「BIG MOTHER」っていうカフェバーを出したらまた当たってしまい、仕方なしにもう一軒出したカフェバーが「BAGUS」でした。 1982年 当時はカフェバー全盛の時代で、ファッションはDCブランド、真黒な洋服を着た女の子たちが高校や大学の授業をさぼってBALのバーゲンに列を作っていました。 BAGUSにはそういったオシャレなショップのお姉さんやお客さんがよく来てくれていました。 店の内装はバリ島のリゾートホテルのティールームみたいな感じで籐の家具をたくさん使っていました。音響にもお金を使っていて(さすが節税対策)ALTECのでっかいスピーカーや、当時はすごく高かったレーザーディスクを使ってこれまたでっかい(畳3畳くらいの)スクリーンに、R・ストーンズやB・マーレイ、ビッグウェンズデイなどのサーフィン映画を流していました。 人気メニューはツナチーズのH・Pサンドイッチでした。 ほぼ毎日来るカンパリソーダ中毒のアーティスト系外国人のカンパリおじさんや、夜の店内でも絶対にサングラスを外さない腰までの長髪の村八分っていうバンドのおにいさん、治外法権っていうハードロックバーのオーナーさんは当然長髪で、店の内装イメージがサーファー系なのに、いつも一人で来て必ずR・ストーンズのライブレーザーディスクをリクエストする若者はやっぱり長髪で、でもたまに見回りに来るBAGUSのオーナーでもある奈良のパチンコ屋の社長はスキンヘッドで、毎回きまってジャックダニエルのトマトジュース割を注文してスタッフの度肝を抜いていました。 ワタシハそのころみんながよくやってた前髪長めでもみあげかなり短めの80’s丸出しのヘアスタイルでした。 BAGUSではそのころ始まったばかりのSONY MUSIC TV (マイケル富岡が司会)やAMERICAN MUSIC STATION(小林克也)のビデオ(ベータ)録画したものを3畳のスクリーンに映してナウいカフェバーを演出していました。 ABC DURAN DURAN KAJAGOOGOO HAIRCUT 100 CULTURE CLUB TOMPSON TWINS ダリルホールとジョンオーツ ワム スパンダー・バレー ドナルド・フェイゲン・・・中身の薄いラブソングが多かった80’s・・・やったような気がします。 ワタシハよくRY COODERやLITTLE FEAT JACKSON BROWNE DANY HATHAWAY などをこっそりかけていました。店長から「もっと、のりのりの軽いやつかけてね」ってよく言われていました。 まだ大学生だったワタシハ学校にはほとんど行かず、バイトに明け暮れていたので、単位はなかなかとれずにショッキングピンクのワーゲン(ビートル)を乗り回して、将来への不安感や根拠のない焦燥感から逃避していました。バイト仲間から得る情報や世界観に任せっきりで、自分の本当にやりたいことを見つけられないまま、時間だけが過ぎていきました。 大学の4年間で絶対自分に合う仕事を見つけて就職するつもりでしたが、学校の自由さがかえって不自由に感じられ、何でも自分で決められる自由が鬱陶しく思えてきていました。自分にピッタリなやってて幸福感に包まれるシゴト・・・そんなのが本当にあるのかなあと漠然とした失望感に浸っていた1982年ごろです。 # by sarasa-aki | 2008-11-25 14:58
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